楔形文字入力補助具 GI-DUB[qantuppi] (https://qantuppi.kurnugia.com (opens new window))を紹介します。
qantuppi を最初にリリースしたのが 2018 年で、今年は 2024 年です。使い方の説明とかまったく書かずにこれまできてしまいましたが、そろそろ説明したいことも増えてきました。
# なんて読むの?
GI-DUB は 𒄀𒁾 のシュメール語読み、qantuppi はアッカド語読みです。意味はどちらも書記が粘土版に楔形文字を書き記すのに使う葦筆のことです。筆者はふだんカントゥッピと呼んでいます。
Gidubak on ePSD (opens new window)
# どうやって使うの?
入力欄に楔形文字の翻字(アルファベット表記)を入力してください。変換候補が出て来ますので、選択してください。š の文字も s で入力して検索できます。
下の方に楔形文字のフォントを選択するボタンがあります。シュメール、古バビロニア 2 種、新アッシリア 2 種、ヒッタイトの 7 種類から選択することができます。楔形文字は同じ文字でも時代や地域によって大きく形を変えているため、それぞれの時代や地域の字形を表現するフォントがつくられているのです。[1]
入力欄とフォント選択の間に、文字の詳細情報を表示する欄があります。
ここではその文字が Labat[2]や MesZL[3]の字書での何番の文字にあたるか、他にどんな読み方があるかを表示しています。この例ではラバの字書では 85 番の文字で、2 つ目の 77 ページ[4]に記載されていることを表しています。ラバの字書に立項されている文字については archive.org を参照して直接そのページへのリンクを表示しています。[5]
その他、eBL(electric Babylonian Library (opens new window))と Wiktionary (opens new window) へのリンクも表示していますが、こちらはリンク先の存在を確認せずに表示しているので、文字によってはただしくリンクされていないものもあります。
なお、シュメールと新アッシリア B 以外の 5 つのフォントはすべてブリュッセル自由大学のSylvie Vanséveren (opens new window)の作です。シュメールのものは Oracc の Steve Tinney と Michael Everson によるCuneiformComposite (opens new window)というフォントをもとにして Google の Noto プロジェクトでデザインされたフォントです。新アッシリア B は西ボヘミア大学のKateřina Šašková (opens new window)の作です。なお A とか B とかいってるのはあくまで qantuppi の表示用に便宜的に表記しているだけで、フォントの名前はそれぞれ別にあります。フォントを選択すると下にフォント名も表示されます。(上の画像では Ullikummi A というのがそれです)
Rene Labat の D' Epigraphie Akkadienne です。Labat はラバと読みます。
Rykle Borger の Mesopotamisches Zeichenlexikon です。
2 つ目の 77 ページってどういうことかというと、そのままで、この字書では 76 ページと 77 ページが 2 回繰り返されています。こちら (opens new window)がそのページにあたります。
検索した文字から気軽に字書を確認できるのは使ってみると思った以上に便利です。この ラバの字書は紙の本も手元にあるのですが、目的の字を探すのがどうしてもおっくうでなかなか手が伸びないのですよね。自宅だったら qantuppi でページ番号だけ確認して本をめくってもいいし、出先でも archive.org を参照できるので、便利に活用できるようになって新しい発見がいろいろありました。
# どうして作ったの?
ユニコードにはおよそ 1000 以上の楔形文字の記号が収録されています。これらの記号は Google の Noto プロジェクトによりフォント化され、現代の PC やスマートフォンのほとんどでは標準でこれらの楔形文字が表示できるようになっています。
ただし、ユニコードの規格に定められているのはこのように、例示の字形とその名称だけです。
https://unicode.org/charts/PDF/U12000.pdf (opens new window)
その記号が Labat や Borger など従来の字書で分類されてきたどの記号にあたるのかは、ユニコードの規格からはわかりません。例示の字形もウル第三王朝期から古バビロニア期にかけてのものなので、たとえば新アッシリアの時代の粘土版の記号と照合することもできません。
そこで、ユニコードの符号と従来の字書を突き合わせて対応表を作る試みが幾人もの専門家によってなされてきました。
主要なものとしてはエリナー・ロブソンによるLabat とユニコード文字セットの対応表 (opens new window)や ePSD のサインリスト (opens new window)、フェルトハイスらによるOracc Sign List (opens new window)[6]などがあります。
ETCSL にも ETCSLsignlist (opens new window)という、ETCSL で使われている語の楔形文字表記がわかるページがあります。
そして qantuppi が参照しているのが、チェコは西ボヘミア大学のカテジナ・シャシュコヴァ先生[7]が作成したサインリスト (opens new window)です。
このページには、Borger や Labat の字書に収録されている文字がユニコードのどの符号に対応するのか、Labat と Borger の間の差異も含めて精緻に記載されています。
このデータを元にして、翻字表記から楔形文字を検索して表示しているのが qantuppi というわけです[8]。
実は最近になってこの Oracc Sign List が非常に重要な存在になりつつあります。ロビン・リロイによるユニコードの暫定レポート (opens new window)の中で楔形文字と翻字の対応表として推奨されているからです。最近(?)はスティーブ・ティニーも編集に加わっているようで、将来的により大きな権威を持つ可能性があります。
Kateřina Šašková 先生なんだけど、この発音があってるのかどうか。ファーストネームは以前カテリナかと読んでいたのだけど、どうもカテジナのほうが近いみたい。
qantuppi を作ったあと、シャシュコヴァ先生にこのサインリストと新アッシリア楔形文字のフォントの利用許諾をお願いしたところ、快諾いただけたばかりかホームページ (opens new window)からリンクまでしていただき、感激するやら恐縮するやらでした。
# こういうサイトは qantuppi 以外にはないの?
もちろんありますよ。主要なものをご紹介します。
# cuneify
最初に紹介すべきは楔形文字のユニコード符号化を主導したスティーブ・ティニーそのひとによる楔形文字変換スクリプトCuneify (opens new window)です。非常に古くからあって、qantuppi を作るときにもこのページは知っていたのですが、当時はなにか不調があったのか、変換しようとしてもサーバーエラーしか表示されなかったのですよね。Oracc の標準的な翻字書式である ATF を直接楔形文字に変換できるのが大きな特徴で、文をまるごと変換することができます。
ただ、正しい翻字を入力しないと文字に変換されないので、qantuppi のように翻字の一部を入力して検索することはできません。
# eBL Signs
もうひとつは最近発表されたもので、ミュンヘン・ルートヴィヒ=マクシミリアン大学(LMU) の electronic Babylonian Library プロジェクト内にあるSigns (opens new window)です。
こちらも非常に優れていて、検索結果の情報量がすばらしいです。その記号が使われるシュメログラムとアッカド語での読みや意味も表示されますし、Borger の MesZL の内容も完全に電子化されて引用されています。
楔形文字表記もヴァンセーヴェレン先生のフォントを全面的に使っていますし、古バビロニア時代以降にフォーカスした楔形文字情報源としては 2024 年現在ではもっとも充実しているといえます。
qantuppi の検索結果からも eBL にリンクを張っていますので、併用するとさらに便利です。
# qantuppi に注意点はないの?
前述のように qantuppi ではシャシュコヴァ先生のサインリストを元に翻字と楔形文字の変換をしていますが、このサインリストでは Labat と MesZL で齟齬がある部分について細かく注釈が記されています。
ここでは GI に対して多くの記号価が挙げられていますが、EŠŠA2やGIN7は赤字で記されていて、Labat ではこの番号で書かれているけど MeZL ではEŠŠAxやGIN6と表記されていると説明されています。
このような場合にシャシュコヴァ先生のサインリストでは MesZL での記号価を黒字で、MesZL と齟齬のある記号価は赤字で記載しているのです。
qantuppi ではこのような赤字やグレーで書かれた記号価は除外しています。そのため「gin7」と検索しても GI の記号は出てきません。シャシュコヴァ先生のサインリストがそうであるために、基本的には qantuppi も Borger の MesZL に依拠しているといってもいいでしょう。
また先に説明した通り、翻字とユニコードを対応付けるサインリストも何人もの専門家の手になるものが存在し、それぞれ多少の差異があります。
例をあげると、GIN2という記号があります。
シャシュコヴァ先生のサインリストではこの記号をユニコードの DUN3 という名前の符号に対応させています。
一方、ほかのサインリストではGIN2はDUN3 gunûに対応させることが多いようです。
シャシュコヴァ先生のサインリストではDUN3 gunûとDUN3 gunû gunûをあわせてMIRとしている一方、ほかのサインリストではDUN3 gunû、DUN3 gunû、DUN3 gunû gunûにそれぞれ記号価を割り当てています。
シャシュコヴァと eBL でこれらを比較すると次のようになります。なお eBL の字形というのは eBL で採用しているヴァンセーヴェレン作の新アッシリアのフォントでの字形という意味です。
コード | ユニコード名 | 記号 | シャシュコヴァの字形(NA) | シャシュコヴァの記号価 | eBL の字形(NA) | eBL の記号価 |
---|---|---|---|---|---|---|
U+12085 | DUN3 | 𒂅 | GIN₂, AGA₃, DU₅, DUG₅, DUN₃, GE₁₁, GI₁₁, GIG₄, GIM₂, PUŠ₄, SU₁₈, SUG₅, SUK₅, TU₁₈, TUG₈, TUN₃,ṬU | DU₅, DUG₅, DULx, DUN₃, SU₁₈, SUG₅, TU₁₈, TUG₈, TUN₃, TUNA₃, ṬU | ||
U+12086 | DUN3 GUNU | 𒂆 | DUN₃ gunû; MIR, AGA, AGU, IR₁₇, MER, MERE, MIGIR, MIRI, NIGIR, NIMGIR, TEN₃, TIN₃, UKU | AGA₃, AĜA₃, GE₁₁, GI₁₁, GIG₄, GIĜ₄, GIM₂, GIN₂, GINA₂, PAŠx, PUŠ₄ | ||
U+12087 | DUN3 GUNU GUNU | 𒂇 | see MIR | AGA, AGU, IR₁₇, MER, MERE, MIGIR, MIR, MIRI, NIGIR, NIĜIR, NIMGIR, NIMIRx, TEN₃, TIN₃, UKU |
こうしてみると結構違っているように見えますが、よくみると記号価と NA 字形の組み合わせでいえば大きな齟齬がないこともわかります。シャシュコヴァ先生のサインリストで使われている NA のフォントはシャシュコヴァ先生の作なので、NA の字形では対応が取れているのです。
あくまで、シュメール時代までさかのぼって分類したユニコードの符号に対してどのように対応させるかという点で違いが出ているわけです。ちなみに Labat のページではこれらの記号はMIR(p.169) (opens new window)、AGA3(p.243)) (opens new window)のページにあたります。じっくりみるとなかなかおもしろいですよ。皆さんならこれらの字形とユニコード符号とをどのように対応させますか?
私の考えでは、GIN2に限っていえばDUN3 gunûとするのが相当だろうと思っています。GIN2はギルガメシュの綴り(GIŠ.GIN2.MAŠ)にも登場する文字ですが、以前の記事で書いたように古い時代の綴りのハンドコピーにはDUN3 gunûがはっきり見られます。
とはいえ素人判断で恣意的に変更を加えてしまっては余計にややこしくなりますので、あくまで qantuppi ではシャシュコヴァ先生のサインリストに準拠することとしています。
これは私が気づいた一例で、ほかにもこのような事例があるかもしれません。この点についてはご注意ください。
とはいえ、数年使っていて楔形文字のハンドコピーと翻字からの変換結果を見比べることもよくありますが、ほとんどの場合でうまくいっていると感じています。シャシュコヴァ先生をはじめとする専門家達の労作に感謝するばかりです。